アイヌの美学

アイヌの英雄であったシャクシャインの子孫が住む新ひだか町の、アイヌの方々の想いを綴ってみました。

2013年、シャクシャイン法要祭にて

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2013年9月23日の今日、例年のシャクシャイン法要祭が新ひだか町/旧静内町で開催されました。
シャクシャイン彫像の前で一人づつアイヌ民族の儀式にのっとり、パスイを持ってスザに濁酒を丁寧に振舞うのが正式なマナーと古老/エカシに教わりました。
 
今年はなぜか特別な想いがあります。
シャクシャイン像を造る際に、「俺はモデルにされたんだ、そして出来上がったシャクシャイン像の右腿にアイヌが使用したいろんな小物を埋め込んだ」と、とても嬉しそうにお話して下さった虎尾末吉さんがお亡くなりになりました。
虎尾末吉さんは天皇の牧場である新冠御料牧場/現社団法人北海道家畜改良事業団を作る為に当時、姉去/現在の新冠町大富で生活されていたアイヌ民族が上貫気別に追いやられた数少ない証言者のお一人りでした。
まったく罪のないアイヌ民族の一人であった虎尾末吉さんを国家が、そして天皇が、生きるに困難な辺境の地であった上貫気別へ強制的に移住させたことに対し、御自身の無念なお言葉は今でも私の耳に強く残っております。
しかし虎尾末吉さんの陽気な性格とその自然に溶け込んだその生活ぶりはとても味わい深く何時も笑いに溢れ、その場を和やかにする術を心得たスマートなエカシ/古老でもありました。
こんなことも聞かせて下さいました。
数年前のある秋のこと、高見の山奥で鹿を4頭獲り、新ひだか町豊畑の御自宅に夜遅く帰宅し、翌日解体すること
にして獲物を老いた犬に見張りをさせ、ご自宅の真ん前にぶら下げて置いたところ、「断りもなく、深夜に熊が来て、内2頭の鹿を引きずって、俺の寝室の頭のところを通り、裏藪の中に消えてしまった」と、熟睡していた御自身と番犬の老いを重ね合せ、それはそれは面白可笑しく聞かせて下さいました。
まさに話術と狩猟に関しては天才的な御仁でありました。
時化後の浜に貝があがったと聞けば採りに行き、静内川上流にイワナを追い、熊猟、鹿猟で名を成した、何より自然の中に身を置くことを楽しみとされておりました。
当然のことながら法律、条例に違反することもあったらしいですが、大声で「北海道で獲って何が悪いんだ!」と、この悪人面で言うとそれで済むんだ、とおもしろ可笑しく聞かせて下さったこともありました。
そこには憎みきれない好々爺である以上に、無主、無所有のイオㇿ/イオルだ、と声を大にして主張したかったのでしょう。
 
また、ご自身の御母堂であるハルさんが亡くなられた時、アイヌ民族固有の葬儀式で送ったことを説明して下され、最後にご自宅に火を掛けることまで具体的に記録写真で説明して下さいました。
アイヌ民族に伝わる古来からの死生観、宗教観が凝縮され、ある意味、日本人の土着思想の深層を垣間見た気がしましたが
その言動、思考の根っこには、堂々として気高い、’俺はアイヌだ’と誇る心象があったのは間違いありませんし、加えてその男らしさには周囲のシャモ/和人も敬意の念を抱いておりました。
 
しかし同時に深い悩みも抱えておりました。
お年頃の御子息を抱え、ご自身のアイヌというアイデンティティの否定を身内から迫られることも度々あった
と言葉少なに申され、とてもお辛いことであったに違いありません。
私にもご本人よりどうしたら良いのだろうかと、相談されたこともありました。
私はその答えを避けてしまいましたがその後、アイヌ協会の活動より離れてしまったと聞いております。
虎尾末吉さんはさぞかしご無念であったでしょう、社会が悪い、国家が悪いと言うのは簡単なことでしたが、私にはとても重い哲学的問いを残して逝きました。
社会は成熟した、もう異文化ではない、などとシャモ/和人の発する空疎な言説の中に槍のように潜むracismは今後、如何程の変容を遂げるのか、それには時間しかないのでしょうか。
シャモ/和人が真に成熟した社会を謳うのなら、虎尾末吉さんの苦悩、問いを自らに置き換えて真摯に対峙し、アイヌもまた自らを問い直す事も必要ではないのでしょうか。
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さて、日本人の自然観、宗教観を考えるとき、仏教渡来後はそれなりに歴史に登場してきますがそれ以前はあまりにも不明な点が多い、しかし現代の科学では日本人のdnaを遡ればアイヌへ、そして縄文人へと否定できない太いパイプで繋がっていることは既に証明されております。
例えば菅江真澄の記には東北にも沢山のエゾ/アイヌがいたと書かれ、松浦武四郎イザベラ・バードらの旅行記にもたくさんのアイヌ民族の生活様子が載っておりますが、一体アイヌ民族はどこへ消えたというのでしょう
科学者は客観的事実でモノを提示します、そこに推察、独断、邪推を持って否定、或いは消滅させたところで全く無意味です。
もっと言えば日本の原理的、社会的風潮はアイヌという単語さえも忌避してしまいました。
その愚思考的行動はある意味、現代文明に潜む残虐な幼稚性、そして後進性を如実に物語ります。
古書に帰化人という表現ではなく、なぜか渡来人という、ある意味、蔑称の意を込めた表現も天に唾する行為とも読み取れますがそれをして、日本の歴史が始まったと勘違いする現代文明はたかだか2千年前後であります。
それよりもはるかに長い縄文文化があった、そしてそこにこそ古事記日本書紀以前の、つまり現代日本人の持つ土着思想の源流がある筈です。
その縄文文化の根幹をなす思考、自然観、宗教観は多少の紆余曲折があったにしろ、アイヌ民族に立派に引き継
がれている、アイヌ民族こそが若しかして我々が知ろうとしている祖先の代弁者なのではないでしょうか。
それやこれや秋快晴下の真歌の丘で、アイヌの輪になって踊る姿を拝見しながら考えました。

かっぱらいの論理

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あるアイヌ民族に関する医学研究があります。
それは特定地区に於けるアイヌ民族のsexual infectious disease抗体価の有意な上昇を示す疫学データを含みます。
それをあろうことか公表しました。
’知る権利と知られる不利益’に対する問いです。社会はそれによって如何程の利益を得たのか、また
当然の事ですが加療等は実施されたのでしょうか。
そこから別の研究者はアイヌ民族の動物的生態論を吐露するなど、無責任でいい加減な解釈の連鎖も起こりました。
被験者、つまりアイヌにとっては生体解剖に等しい意味を持つ本疾患を示唆する数値を活字化するということ、その根底にはいったい何が潜んでいるのでしょう。
それを出版界、メディアまでがこぞって助長しましたがこの問いに対する解を研究者個人のモラルにのみ帰結しては決してな
りません。
それがお年頃の若い娘さんを持つアイヌのご家庭に如何程の心的ダメージを与えたのでしょう。
結局、それは無批判に受容したシャモ/和人の無思考な心にたどり着きます。
 
昔だから許されたという意見があります。
もしもその論が百歩譲って許されるなら、どのような理由で、一体誰が許したのでしょう。
また今では社会が成熟したのでこの様なことはないと識者は申します。
ところが現代社会である種の意図を持った冷たい視線は今まで以上に潜在化し、アイヌ民族アイデンティティ、尊厳を否定
するが如き世相も醸成され、成熟した社会とは表面上ただ演出されているに過ぎないのではないでしょうか。
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また視点を変えれば自然科学は他者の尊厳を傷つけることも許されるのか、という学問が本質的に抱える哲学的問いに対し、アカデミアの住民は一つの解釈を提起したともいえますし、医学会が積極的、或は間接的に関与したtorture vs intelligenceに対する問いでもあり、この図式は21世紀に於けるアングロサクソンvsイスラムと同根ともいえます。
更には史書にわずかに残る、15世紀の蠣崎武田信広/松前藩始祖がアイヌに対して謀略、搾取、虐殺の限りを尽した時代
から21世紀の今に至る歴史の中でシャモ/和人の深層に宿る醜悪な思考の連鎖を証明するものでしょう。
 
札幌農学校卒の新渡戸稲造が「武士道」を著する資格があるのか否かは別として、昨今、武士道とやらの日本人の心をくすぐる一語を耳にします。
義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義など、つまるところ高潔な心に基づく普遍的な美徳として武士道を解釈した場合、松前藩のお侍さんにそれを見出す事はできるでしょうか。
歴史のミステリーの中にあった蝦夷松前藩史が少しずつ解き明かされ、ノンフィクション化された史実をアイヌの目線で再考すれば、松前藩とはそれこそ武士道の風上にも置けない、畜生にも劣る、卑怯者の姑息な愚集団に過ぎなかったことが分かります。
 
蠣崎波響/広年が画したとされる十二人のアイヌ虚像である『夷酋列像』の成り立ち、天覧に至る嘘と美醜を併せ持つ画風、経緯などその最たる例でしょう。
 体制転覆を免れた松前藩主が次に企んだことは中央幕府、公家らにアイヌを支配、治める松前藩の権威を示すことでした。
よって松前藩プロパガンダとして実態とは全く異なった華美で豪壮、勇猛な風貌を持つフィクション化された異民族としてのアイヌ画が必要だったのでしょう。
そのためアイヌ/夷酋の長老にオロシア、中国由来の派手な着物を着用させた珍妙な『夷酋列像』画が描かれました。
異民族を掌握、支配する藩の強い権威を演出するためにです。
 
このように政略的意図を持つ『夷酋列像』画の裏側にはアイヌに対する沢山の虚、嘘、虐殺、詭弁があり、現代人はそれを無視して本画に美的、好奇な視線のみ注ぐのでは往時の光格天皇をはじめとする公家らの幼稚な視線と同類です。
 
歴史にその功罪を問う愚かさを知りつつも、ある期間において蝦夷の主役をなした松前藩アイヌに対する原理的思考が21世紀になお遺残し、それが北海道でノブレス・オブリージュ/noblesse obligeの精神が育たない大きな要因の一つとなっているのではないでしょうか。
 
北海道人はアイヌから盗ったものは自分のものと決め込んでおります。
しかしロシアに取られた北方領土は国を動かしてまで返せと強く主張します。
両者の’盗った、取られた’に共通するのはただ一つ’不条理’ということでしょう。
 
このブログの読者は’盗った’と’取られた’を不条理という秤にかけた事がありますか?
共に傲慢な力学が両者の’かっぱらいの論理’に潜みます。
 
本疾患を愚ブログで取り上げる矛盾を抱きつつ、くれぐれも誤解なきよう、文意をお汲み下さい。

権威って何でしょう

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あるエカシ/古老は過去に自宅を訪れ、残していった研究者達の黄色に変色しかけた沢山の名刺を取り出してきて見せて下さったことがあります。
その名刺を無造作に放り投げ、目に敵意を滲ませ、時には独り言のように罵声を発して心中を吐露して下さいました。
その怒りの矛先はアイヌ民族を汚した全てのアイヌ研究者に向けられております。
おそらく善意は有していたであろうアイヌの研究者でさえその業績どころか、全人格までもが研究対象としたアイヌ民族より否定されております。
この地では研究者が被研究者より蔑まされるという世界的にも例を見ないであろう愚かな現実があります。
 
学問の自由とは公権力の干渉から自由という意味合いの他に‘知る’ということの自由でもあります。
私は‘知る’ということを全ての分野に至る定理とは認めません。
もしも万人がそれを一致して認めるのならば、必然的に‘知られる’ことの不自由も同率で内在する分野であるならば受益者、不利益者が同じ机上で向かい合わなければなりません。
知る、知られることの自由、不自由という古き難題を持つ学問であるならば当然のことでありその際、最低限のマナーは厳守しなければならないのがアカデミアの住民のお約束事です。 
一部の現代の研究者にはそのマナーを無視してアイヌをmaterialsとした過去の学問を内省的、そして学域の本質に迫ろうとする議論もなされているようにも思えます。
たとえば「学問の暴力/植木哲也著/草風社刊」では医師がアイヌ及びアイヌ由来とおぼしきmaterialsよりアイヌの比較解剖学的特徴を研究した事例に対し、同じくアイヌ研究者の一人である著者が国家より与えられた力、或いは社会的に認知された学問の力をあえて暴力/violenceと言い表して実際にアイヌの為になるとされた研究のmaterials & methodを問いかけております。
しかし残念なことにその論理集には何故なのか理解できませんが被験者であり受益者とされた肝心のアイヌが不参加である以上はNY/NY、9.11テロ以降のアメリカで盛んに議論されたal-Qaeda 'torture'を非難してGuantanamo 'torture'を黙認するが如き高慢なアングロサクソンに往々にしてみられる身勝手な思考法に似てなくもありません。
アカデミアというある種の自閉的な空間から析出される研究の自由、発表の自由という論理が所詮自己満足に過ぎない権威とやらと相まって小金井良精(東大医学部)、清野謙次(京大医学部)、児玉作左衛門(北大医学部)等の業績をその教え子達は今なお総括できない一要因になっているのかもしれません。
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戦後のドイツでは国家、アカデミアが総力をもって誤ったイデオロギーを正し、ユダヤを含む周辺国に謝罪した行為と比べてみても日本に於ける旧帝大を冠した大学ではその研究に於ける誤ったmaterials & methodに対して謝罪すらも行われていないようですが今でも尚その権威とやらに強大な力が宿ると独り自尊する思考回路、後進性はお恥ずかしい限りです。
 
帝国大学という看板を掲げ、ある種ナルシシズムに陥ったが如き研究者が権威を勘違いしてビックツールを振り回し、結果として
受益者であるべきアイヌを追い詰めてしまったといった視座の決定的な欠如と3.11の際に登場し提起した推論、諸説が後に否定された原子力関連の御用学者の病理的心象はぴったり一致しています。
 
権威者は嵐の如く押寄せる異文化に対し必死に順応しようとしていた少数者の心の深奥を見ず、ただ国家だけを見ていたようです。

1通の嘆願書/ルサンチマンか

 
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その当時、新冠御料牧場はまだドサンコ馬程度の中型馬しか飼養していなかったはずです。今改めて考えると天皇の牧場にとってアイヌドサンコ馬よりもはるかに粗末な存在で、開墾後には厄介者になりさがります。
人は人に対してここまでやるのか、本当にここまでやっても許されるのかという疑問は当時、誰も持ち得なかったのでしょうか。
挙句に後世の識者の多くは無感情でアイヌの人間としての存在を否定、地上より消滅させようとした史実を無機質な帝国主義という四文字内で収れん、変性させ、根っ子にある筈の論点、責任を簡単に希釈し無毒化しました。
『identityとは自分が何ものかを自分に語って聞かせるストーリーです』と、イギリスのお医者さんであるR.D.レインの言葉があります。アイヌのidentityの根幹をなす言語、文化を破壊し尽くすことからはじめ、やがて同化が完了しつつあるとした北大の高倉新一郎は’一つの民族が地上から消えるのは大問題だが結局は双方にとっては幸せである’と理論武装を欠いた愚論を展開します。余談ですがこの支離滅裂な’双方にとってしあわせ論’は今でも一部の大学では消去できない通奏低音として深く静かに流れているのでしょうか、加えてシャモ/和人や現代の若いアイヌ系の人々の心の底にも広がりつつある様に思われます。
それに対し、佐々木昌雄は自著「幻視するアイヌ」の中で’ある族との関わりにおいて、異族なのであって、その関わりを設定する根源が共同体の構造の内に在るのならば、同族が存在する限り、異族もまた存在する’と明解な文章で痛烈に批判し、きっぱり否定しております。
すべての人間が持っている’私は誰だ’の永遠なる問いに対して、アイヌという鏡に映し出されたシャモ/和人の自我像は余りにも即物、独我的で醜くい姿を晒しておりますがその原因を時に鏡のゆがみにありとする奇論、加えてここ日高に住む私を含む和人/シャモは自らの生活がアイヌを隅っこに追いやり、アイヌの犠牲の上に成り立つことになんら疑問を持たず、さらにアイヌは往時の新冠御料牧場の悪行を語り継いでおりますがその嘲笑の鋭い剣先は個々の日本人に向けられているという感性すらも持っておりません。
感性の欠如とはすなわち無教養ということです。
 
現代日本人はアイヌから付き付けられた重い10項目よりなる嘆願書をルサンチマンと読むか、或いは多喜二の「蟹工船」同様、人間の原罪を問いかけている書として読むかは人それぞれでしょう。
 
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最後に金田一京助が富川で書き残した文より抜粋、以下原文のママ、引用します。
『この人々は、いつでも黙々として、損を耐へてゐる人達である。蔭で有りつたけの真心を支払って、知られぬ儘に埋もれて行ったこの種の純情は、国土の開拓の下に、昔からどんなに沢山浪費されたことであらう。
無告の寃枉(エンオウ、濡れ衣を着せられ不当な扱いを受けるの意/引用者注)の限り無き下積に、恬として優勝者の顔をして、少しの不安も無しにのさばつて居れた吾々の浅ましさ』。
<p201,太古の国の遍路から/抄・金田一京助 日本随筆紀行-1 太古の原野に夢見てより以上引用>

2011年、シャクシャイン法要祭にて

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平成23年9月23日、恒例のシャクシャイン法要祭が新ひだか町/旧静内町真歌の丘で小雨混じりの寒い中、盛大に開催されました。
地元のエカシ/古老等に、シャクシャインは何処で殺されたのかと聞くとある人は今の静内駅近くと答え、またある人は新冠川河口東側付近(現在地より数百メートル程町寄り)、或いは河口西側の会所前と答え、中には真歌の断崖から鹿皮をかぶって静内川に飛び込み、水中深く潜って生きながらえたと祖先より伝聞している云々と語る方もおり、更には今でもシャクシャインの子孫はいると何人ものエカシ/古老は自信ありげに答えておりますが、おひざもとならではのお話です。
 
午後、各地より参集したアイヌ民族がそれぞれに趣向を凝らした素晴らしいアイヌの舞いを披露されました。
特に登別より来られたアイヌ民族の踊りは知里真志保博士の地元ゆえ、その著書にも登場すると云われているフンペリムセ/クジラの舞、酒こしの唄と銘打った舞にひときわ大きな拍手が沸いておりました。
北海道各地に残るそれぞれの貴重な踊りは私の知る限り、カナダのバンクーバー島で見たあるマイノリティのdance、アメリカ中西部ナバホ砂漠近くで見たindian dance、テキサス南部で見たmexican dance等、どれも10人前後が楽器を殆ど待たず輪になって舞い、歌う形態が共通している様にも思えますが、文化だけに限らすdnaの近似性もあるのでしょうか。
 
後世の史家はシャクシャインの戦いを独立の為の戦い、イデオロギーの戦い、或いは経済戦争等々論陣を張っておりますが地元エカシ/古老の方々に何故静内だったのかと質問すると堂々と「豊饒なる大自然があったからだ」と自信と誇りを持って教えて下さいます。
正しくアイヌ民族の考えるアイヌのヒーローの存在原点は地勢的意味もさることながら素晴らしいイォロ/イオルがあったからなのでしょう。
 
さて、環境哲学者の故三浦義雄(ペンネーム/三浦誠一)著、「滅びのアテナ/1998年北樹出版」の中に、
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世界観とは、自分が世界の外に視点を置いて、世界を客観的に観察するような質の知ではなく、自分もその世界の内にいて、世界の諸部分とかかわりあいをもちながら、自分や自分たちにとって、世界の何であるかを捉える、そういう質の知である。
それは、世界やそこに存する諸事物についての意味を見いだしたり、あるいは、意味づけたりすることともいえる。
私たちが人の顔をのぞきこむとき、そうすることによって私たちが求めているのは、その人の表情(現れ)を通して、その人の内にあるものを読み取ることであろう。自分の次の行動を決めることができる。
赤ん坊の泣き声や表情や仕ぐさは、母親にとって重要な信号で、その信号を通じて、その子が何を欲しているかを読み取らなければならないし、原子力発電所の制御室で働く技術者は、ずらりと並ぶ計器が示す数値によって、原子炉内部の状態を推し量らなければならない。
それら、顔色や泣き声や計器の数値は、単なる情報ではなく私たちにとって、その背後にある何物かを準えるための意味をもった情報ということができる。自然を見る際にも、ちょうど母親が赤ん坊の顔をのぞきこむまなざしで、見つめるということである。
古い時代には、世界観が神話や宗教の体裁をとって、その部族や民族のアイデンティティーを保証する高度に磨きぬかれた共有資産になっていたこともあったし、近代から現代にかけてのように、この「私」の見方や考え方のうちに矮小化されて押し込められた時代もあるが、それでも、世界観が私たちの行動を規制し、方法づけていることに違いはない。
そもそも、倫理、道徳、法といった行動に対する規制システムは、人間をどのようなものと考えるか、自然をどのようなものと見るかといという世界観無くして生まれてくるわけもない。
同様に、自然は人間が支配を許されたもの、自然を人間の財だと考える社会と、人間は自然によって生かされていると考える社会とでは、自然に対する態度や振る舞いに、おのずと違いが出てこよう。(p、20~よりママ引用)
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以上、要点のみ抜粋しましたが新ひだか町/旧静内町はその昔林業の町と云われ、もっと遡ると静内川には鮭、マスが沢山遡上し、砂金が採れ日高山脈を源流とする透明度の高い美しい水流を保つ川岸にはアイヌの集落が点在すると戊午日誌/松浦武四郎著、染退水源之記/山内作左衛門著その他の書にも記録されておりますし、何よりエカシ/古老はどんな大雨でも濁らない川だったと云っております。
 
その自然豊かだった我が町の奥にそびえる日高山脈の裾野に生茂っていた巨木は今では一本残らず切り倒して商品化され、要不要の議論が為されたのか車の走らない縦横に伸びる林道を造り、沢山の効果不明な砂防ダムを造った挙句に一雨降るたびに一週間以上は泥濁りとなってしまう静内川、併せて泥濁りの静内の海に魚が激減したと嘆く漁師、鮭、マスも含む在来種の渓流魚は年々減り続け、それを餌とするアイヌコタンの守り神/コタンコロカムイであるシマフクロウは昭和30年頃までは川沿いに普通に見られたものの今では姿を消してしまいました。
 
シャクシャインもさぞかし嘆いていることでしょうし、何より「滅びのアテナ」に書かれている通りであります。
原発事故を経験した今、21世紀の主要命題になったであろう環境哲学が担うべき「復活のアテナ」の方程式は是非ともアイヌ民族に担って頂きたいものです。
 
また静内川の水流を可能な限り元に戻し、鮭が自由に遡上できる川に戻し、ウロを持つ大木が育つと何時の日にかコタンコロカムイは舞い戻って来る・・・これも又シャクシャインの想いに報いる事ではないでしょうか、決して夢物語ではない筈です。

一通の嘆願書/浅川義一とは

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今では牧歌的で素晴らしい広大な牧場、肥沃な農地が広がる新冠町大富地区(旧姉去/アネサル地区)ですが、もとは明治5年(1,872年)、開拓使長官黒田清隆がこの広大な地域を牧場用地と定めたため、昔から新冠川、静内川沿いに散在して暮らしていたアイヌ民族が集められたところです。
嘆願書には「黒岩場長殿の申し渡しにはお前達に永久無料で給與地を貸す」の条件、或いは約束事と判断される文言が明確に記されており、同様に「開墾されるまでは日中でも薄暗いほど鬱蒼と樹木の生い茂る原始林であった」土地を移り住んだアイヌ自らが、自らの手で開墾した土地であり、新冠御料牧場はなんら資本を投入しておりません。
 
ところが宮内省主馬寮頭の藤波言忠はその開墾された土地を見て馬の餌となる穀類の栽培に適した土地であるとして今度はそこで生活しているアイヌが邪魔になります。
そこに浅川義一は70戸のアイヌを管理するために牧場貸地管理人として送り込まれます。
彼は徳島藩の藩主、蜂須賀家の領地であった淡路島を管理する城代家老である稲田家家臣の血を引く人物です。
浅川義一はその後いろいろな名誉職を歴任、叙勲の後、名誉町民に推挙され、自らが編集責任者として携わり、戦後に出版された「新冠町史」の町功労者の最初の欄には、 
「常に旧土人の味方となって少しでも土人のために有利にと努力した」と
 自ら書き加え、溢れんばかりの人間味漂う美談の中で自画自賛しておりますがこれは誰が読んでも分かるように不都合な真実を隠蔽するがための稚拙な一行にしかすぎません。
 
何故なら浅川義一は当然のごとくアイヌ民族の先頭に立ち、共に上貫気別へ移住したものと誰もが思ったことでしょうが事実は全くの逆であります。
アイヌ強制移住させられ更地となった姉去/アネサルに居残り、信じられないことにそこで18町歩という広大な土地を新冠御料牧場より得ていたのです。
後にこの事実を知ったアイヌの心情たるや如何程のものだったのでしょう。
察するに余りありますし、まるで安っぽい三流詐欺小説が如きです。
黒岩四方之進から引き継いだ第五代場長山下盛治、浅川義一等の優越感、万能感にしたったであろう往時の高笑いは想像するに難くなく、逆にアイヌ民族の間では嘲笑と憎悪を持って今なお、重く静かに語り継がれております。
 
これが私達の2,3代前の先祖がアイヌに対して行った非情で姑息的、加えて余りにも御恥ずかしい不条理な真実の一つです。 
この史実の根底にある堕落の極みはガンジー箴言の一つwealth without workに一致すると言っても過言ではありません。
 
 往時の絶対的天皇制下とはいえ、浅川義一はこの地域を代表する人物の一人で公人である以上、その業績、人物像は多面的に評価されるべきであり、決して個人を誹謗中傷する為のものではないことを添えます。
 
勿論、その重大な責任が天皇に帰結するのは自明の理であります。

一通の嘆願書/黒岩四方之進とは

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一通の嘆願書に「明治二十五年頃かと思ひますが新冠御料の黒岩場長殿が・・・」と記載されている様に、第4代場長を務めた黒岩四方之進の虚言によってアイヌは大昔より住んでいた土地を離れ今の新冠町大富、万世地区(旧姉去/アネサル)に集められます。
そして大正5年(1916年)、必死になって開墾したその土地も奪われ、第5代場長山下盛治の時に貫気別に強制移住させられます。
この黒岩四方之進は札幌農学校でクラーク博士より農学、キリスト教を教わり内村鑑三とも友人で北海道開拓の貢献者というのが大方の位置付けですし、ヒーロー的人物として取上げられております。
しかしこの嘆願書からする限り、後世の史家等が如何程の耳障りのよいフィクションを創作しようとアイヌを徹底的に騙して利用、酷使の挙句、土地所有権を奪った新冠御料牧場第4代場長です。
 
黒岩四方之進はアイヌをethnic cleansingすることに政治的意味を見い出したのでしょうがよもや後世にこんな嘆願書が出てくるとは思ってもいなかったことでしょう。
 
お一人の神様しか存在しえないお国では両極が対立した場合、他を徹底的にぶっ壊します。
しかしその後に形成される統合された国の体制はあまりにも薄っぺらで脆い事は何より歴史が証明している事、そしてキリストを信ずる人々はそれが一神教的思考に宿る根源的な病であろうことはアングロサクソンならずとも知っている事でもあります。
新大陸に入植したピューリタンの多くは「邪魔なインディアンは悪魔が創作したもの」と考え、それを抹殺する為、なんら躊躇いもなく天然痘に汚染された膿汁、痂皮を毛布にすり込み、ばらまき、そして理想郷を造りました。
同じく黒岩四方之進はクラークより教わったcreatorの説くphilanthropismを片手に、もう一方の手で残虐なethnic cleansingに手を染るという大いなる矛盾に対し、自身のキリスト信仰心と自己相対化の有無の問いは愚問にしても、母国から宗教難民として新大陸に渡ったピューリタン、或いは維新という大革命で蝦夷に渡った喰いっぱぐれのサムライどもがそれぞれの新世界で犯したethnic cleansingはまるで空腹の肉食獣集団が仕出かす類cannibalism的狂態そのものであり、その延長線上に今のアメリカ、日本という国があります。
 
一通の嘆願書の最も重要なことはアイヌ民族の目線で日本人の民俗性を論じ、問いていることです。
問われた現代人はアングロサクソン的思考を無批判に拝借して今のアイヌ民族を近代国家成立の為の無犯罪的必然によって生じた悲しきエトランジェに仕立てるか、或いは各人自らが人間の存在と国家の存在の狭間にその身をおいて、一人称の日本人のありかたを哲学の命題とするかは人それぞれでしょう。