権威って何でしょう

あるエカシ/古老は過去に自宅を訪れ、残していった研究者達の黄色に変色しかけた沢山の名刺を取り出してきて見せて下さったことがあります。
その名刺を無造作に放り投げ、目に敵意を滲ませ、時には独り言のように罵声を発して心中を吐露して下さいました。
その怒りの矛先はアイヌ民族を汚した全てのアイヌ研究者に向けられております。
おそらく善意は有していたであろうアイヌの研究者でさえその業績どころか、全人格までもが研究対象としたアイヌ民族より否定されております。
この地では研究者が被研究者より蔑まされるという世界的にも例を見ないであろう愚かな現実があります。
学問の自由とは公権力の干渉から自由という意味合いの他に‘知る’ということの自由でもあります。
私は‘知る’ということを全ての分野に至る定理とは認めません。
もしも万人がそれを一致して認めるのならば、必然的に‘知られる’ことの不自由も同率で内在する分野であるならば受益者、不利益者が同じ机上で向かい合わなければなりません。
知る、知られることの自由、不自由という古き難題を持つ学問であるならば当然のことでありその際、最低限のマナーは厳守しなければならないのがアカデミアの住民のお約束事です。
一部の現代の研究者にはそのマナーを無視してアイヌをmaterialsとした過去の学問を内省的、そして学域の本質に迫ろうとする議論もなされているようにも思えます。
たとえば「学問の暴力/植木哲也著/草風社刊」では医師がアイヌ及びアイヌ由来とおぼしきmaterialsよりアイヌの比較解剖学的特徴を研究した事例に対し、同じくアイヌ研究者の一人である著者が国家より与えられた力、或いは社会的に認知された学問の力をあえて暴力/violenceと言い表して実際にアイヌの為になるとされた研究のmaterials & methodを問いかけております。
おそらく善意は有していたであろうアイヌの研究者でさえその業績どころか、全人格までもが研究対象としたアイヌ民族より否定されております。
この地では研究者が被研究者より蔑まされるという世界的にも例を見ないであろう愚かな現実があります。
学問の自由とは公権力の干渉から自由という意味合いの他に‘知る’ということの自由でもあります。
私は‘知る’ということを全ての分野に至る定理とは認めません。
もしも万人がそれを一致して認めるのならば、必然的に‘知られる’ことの不自由も同率で内在する分野であるならば受益者、不利益者が同じ机上で向かい合わなければなりません。
知る、知られることの自由、不自由という古き難題を持つ学問であるならば当然のことでありその際、最低限のマナーは厳守しなければならないのがアカデミアの住民のお約束事です。
一部の現代の研究者にはそのマナーを無視してアイヌをmaterialsとした過去の学問を内省的、そして学域の本質に迫ろうとする議論もなされているようにも思えます。
たとえば「学問の暴力/植木哲也著/草風社刊」では医師がアイヌ及びアイヌ由来とおぼしきmaterialsよりアイヌの比較解剖学的特徴を研究した事例に対し、同じくアイヌ研究者の一人である著者が国家より与えられた力、或いは社会的に認知された学問の力をあえて暴力/violenceと言い表して実際にアイヌの為になるとされた研究のmaterials & methodを問いかけております。
しかし残念なことにその論理集には何故なのか理解できませんが被験者であり受益者とされた肝心のアイヌが不参加である以上はNY/NY、9.11テロ以降のアメリカで盛んに議論されたal-Qaeda 'torture'を非難してGuantanamo 'torture'を黙認するが如き高慢なアングロサクソンに往々にしてみられる身勝手な思考法に似てなくもありません。
アカデミアというある種の自閉的な空間から析出される研究の自由、発表の自由という論理が所詮自己満足に過ぎない権威とやらと相まって小金井良精(東大医学部)、清野謙次(京大医学部)、児玉作左衛門(北大医学部)等の業績をその教え子達は今なお総括できない一要因になっているのかもしれません。
アカデミアというある種の自閉的な空間から析出される研究の自由、発表の自由という論理が所詮自己満足に過ぎない権威とやらと相まって小金井良精(東大医学部)、清野謙次(京大医学部)、児玉作左衛門(北大医学部)等の業績をその教え子達は今なお総括できない一要因になっているのかもしれません。

戦後のドイツでは国家、アカデミアが総力をもって誤ったイデオロギーを正し、ユダヤを含む周辺国に謝罪した行為と比べてみても日本に於ける旧帝大を冠した大学ではその研究に於ける誤ったmaterials & methodに対して謝罪すらも行われていないようですが今でも尚その権威とやらに強大な力が宿ると独り自尊する思考回路、後進性はお恥ずかしい限りです。
帝国大学という看板を掲げ、ある種ナルシシズムに陥ったが如き研究者が権威を勘違いしてビックツールを振り回し、結果として受益者であるべきアイヌを追い詰めてしまったといった視座の決定的な欠如と3.11の際に登場し提起した推論、諸説が後に否定された原子力関連の御用学者の病理的心象はぴったり一致しています。
帝国大学という看板を掲げ、ある種ナルシシズムに陥ったが如き研究者が権威を勘違いしてビックツールを振り回し、結果として受益者であるべきアイヌを追い詰めてしまったといった視座の決定的な欠如と3.11の際に登場し提起した推論、諸説が後に否定された原子力関連の御用学者の病理的心象はぴったり一致しています。
権威者は嵐の如く押寄せる異文化に対し必死に順応しようとしていた少数者の心の深奥を見ず、ただ国家だけを見ていたようです。